※「共通テーマ」を見てたら、やっぱりというか「Cocco」があったのでリンクさせておく。
でもやっぱり、圧倒的に10代の女の子の日記が多い(というか「MEMORIZE」自体そうなんだけど)。なんか「おっさんが何抜かしてやがんだケッ!」とかいわれちゃったらどーしよう、とか思いつつリンクしとく(笑)
実は買ったっきり、何故か未開封で放置しておいたCoccoの4th/ラストアルバム「サングローズ」をやっと聴いた。
聴かなかった理由は色々あるんだけども、多分、すごく個人的な理由だから委細は省くけれども「とてもじゃないが聴いたら耐えられない」という予感と、それに対する防御反応のようなものかと。
で、聴いてなんというか「Cocco4部作・完結」という印象が。
まぁラストだから当然なんだけどさ。
いい機会だから、ちゃんとCoccoについて書いておこうかと思う。
実は自分、何故かものすごく好きなアーティストについてはちゃんと書くことができない。人生で一番インパクトのあった「THE BLUE HEARTS」に至ってはもう不可能じゃないか?とさえ思う。
とりあえず今から5、6年前にはじめてCoccoの「カウントダウン」を聴いた時、その鮮烈な歌詞と叫ぶような歌声、そして幕間に挿入されたストリングスの音。
それらが奏で、描き出す「情景」に戦慄した。
当時、なんつーか「痛い女なのよアタシ、アハ〜ン♪」という感じの歌がちょっと流行ってた(ように記憶してる)んで、この人もそういう路線かなぁ?とか少し思ったりした。
そうそう、いわゆる「ヴィジュアル系」が退廃的で耽美的な世界観を前面に押し出していて(今はもうそうではなくなったが)、そういう流れの傍流で出てきた奴かいな?と。
ちょっと、懐疑的だったのだ。
最初は。
んでも、その時に車に乗る仕事してて、そして「カウントダウン」はその月の「PICK UP」に選ばれていたので、とにかくカーラジオで何度も何度も聴くうちに、何か「ピン」とくるものがあった。
んでもって、ちょうど1st.の「ブーゲンビリア」がレンタル開始になったので借りて、ダビって聴いてみたわけだ。
んでもってこの瞬間、完全に「こりゃあマジですげぇ!!」と思った。
以前に別コーナーでCoccoの「クムイウタ」について書いた時も触れたけれども、「ブーゲンビリア」に俺は強烈な「女性」を感じた。
それも「女性」というものの、凶暴さ。
「月」が女性のイメージで語られ、同時にそれは「狂気(lunatic)」の別名であるように。そして、女性が月の満ち欠けにあわせ血を流す「性」であることを強烈に思い知らされるような衝撃的なアルバムだった。
そしてそこには、一聴しただけで「個人的な体験」に根ざした、あるがままの「疵(キズ)」が生々しく浮き彫りにされていた。
続く2枚目「クムイウタ」はしかし、その一枚目の方向性から明らかに変化が見てとれるアルバムだった。
凶暴な痛みと疵に彩られた(しかしだからこそカタルシスをもたらす)1枚目のその空気は残しつつ(おそらくそれはCoccoというアーティスト、あるいは個人にとって「消すことのできない傷跡」なんだろう)、ポジティブな「光」がさし、そして今度は違った形の「女性」−−それは今度は「優しさ」や「母性」といった形の−−を提示していた。
名曲「RAINING」を聴いて、俺は確信した。
「この人は、間違いなく『歌を歌うことでしか癒されない痛み』を抱え、そして誰のためでもなく、自分自身のために、自分自身が癒されるために、けれども血を流しながら歌を歌っている」
「RAINING」は、一見すると「ブーゲンビリア」の頃に顕著だった「痛い歌」のように感じるかもしれないが、そこで歌われる情景はある意味の「爽やかさ」を持っている。
自分の存在に惑い、ハサミで腕を切って流れる血を見つめる少女。
けれどもその先にあるのは、決してネガティブで後ろ向きな世界ではなかった。
むしろその対極にある世界だ。
空は晴れ、例えようもなく美しい。でも、だから途方に暮れる。
決してこの歌の中で「痛み」は癒しきれてはいない。
けれども、明らかになにか、どうにかして「進もう」としている意志に満ちている。
まだそこに、惑いはあるけれども。
その後、3枚目「ラプンツェル」発売直前、本屋で読んだ雑誌のインタビューでCoccoが語っていた言葉が、俺の考えは間違っていないんだなと実感させてくれた。
曰く
「私にとって歌うということは、排泄行為だ」と。
「ラプンツェル」から次第に、俺はCoccoの歌との間に距離を感じはじめていた。
なんというか前ほど「のめり込めない」のだ。
もちろんそれは多分、俺の方が変わっていったというのもあるし、それどころじゃなかったという事情もある。
でも同時にCocco自身も明らかに変わっていきつつあったのだと思う。
「闇」から「光」、「暗」から「明」、そんな明確で「わかりやすい」方向ではないし、「快方に向かっている」と言えばそうなんだろうけれども、決してそうはいいきれない。
でもまぁ、おおむね大体そんな「方向」へ。
「癒しきれないけれども、癒されていった」んだろう、自分自身が、自分自身を排泄(歌を歌う)することで。
そして4枚目「サングローズ」。
これと前後して活動休止を宣言し、そして最後のTV出演となった「ミュージック・ステーション」で歌い終わったCoccoが「笑顔でカメラに向かってピースサインをした」という話を聞いた時、俺は「ああ、やっぱりそうか」と思った。
終わったんだな、と。
結局、いまだにその映像を俺は見ていないけれども、多分すごくすごく晴れがましい清々しい笑顔だったんだろうと思う。
俗っぽい話をしてしまえば、Coccoの歌というのは精神的な悩みを抱えてカウンセリングを受ける患者の「独白」に近いものがある。
実際、精神的な病いや苦しみを抱える少女達に圧倒的な人気を誇っていた。
自分自身、今ではマシになったとはいえ精神的に病んでいた時期があったし、その時に聴いたCoccoの歌は「共感」とカタルシスの喜びを与えてくれる甘い蜜のようだった。
だけど、Coccoはその「共感」をウリにして、そこで展開していくようなアーティストではなかった。
世の中には「世界観」を構築して、そして自分自身と離れたところで「作品」としてそれを構築する人が多い。というか、プロのアーティストの大多数はそうだ。
そうでなければ「ヤクザ映画」を撮る監督はヤクザだし、「羊たちの沈黙」などのサイコホラーはキチガイにしか撮影できない。
けれども一方で「自分自身」というものを「作品」として表現し、あくまで「個人的」なものでしかないモノを「普遍的」なレベルにまで昇華させるアーティストも存在する。
その代表格がジョン・レノンなどだ。
そしてCoccoもそういう1人だったのではないか、と思う。
先にも書いたように、彼女が歌を歌うのは、リスナーのためでもなく、ましてCDを売るためでもなく、あくまで「自分自身のため」だったのだから。
自分自身を癒すための、歌。
俗な例えをまた持ち出せば、自己カウンセリング、自己快復のための歌。ある意味の「治療行為」。
そうである以上、彼女は変わっていかなければならなかった。
そうでなければ「治療」は完全な失敗なのだから。
風邪などの治療と違い、カウンセリングには明確な「終わり」は無い。
カウンセラーから見て「大丈夫」に見えても、患者側がそう思えなければ「終わり」にはならない。
カウンセリングで「終わり」を決めるのはあくまでも患者自身である。
そしてCoccoは、4枚目のアルバムをもって「終わり」にすることができたんだと。
歌うことでしか癒されない痛み、それはきっと、おそらく決して消えてなくなることはないだろう。
けれども「きっと、もう大丈夫」と。
ネットのCoccoのファンサイトなどを見ていると、「また活動再開をしてほしい」という声を多く見かける。
ファンとしてその気持ちは理解できる。
けれども俺は多分もう「復活」はないと思う。
もし仮にそれがあったとしても、その時には俺はきっとCoccoは聴かないだろう。
だってそれは「自分自身のために」、そして「終わり」とするために内面の疵をさらし、吐露し続けた「Cocco」という名で綴られた4枚のアルバムの軌跡を全て台無しにする行為だからだ。
そういう商業的な戦略をできるアーティストであるのならば、逆にCoccoの歌はここまでの凄味を持つことができたのか疑問だし、きっと1枚目のインパクトの後、溢れかえる商業主義的な音楽の波の中へ消えて、忘れ去られていったんじゃないかと思う。
今回「サングローズ」を聴く前に、何故か「ベスト+裏ベスト」は聴いていた。
これは純粋に「曲」という単位でCoccoに触れたい場合にはよくまとまったベストアルバムだったけれども、でも正直なところ、俺はなんだか「違和感」を感じた。
なにか、小説の長い「ダイジェスト版」を読んでいるような。
まとまってはいるけれども、物足りないような感覚。
俺にとってCoccoはやはり、「アルバム」という単位でしか語る事ができず、そしてその「軌跡」を見続けてきたアーティストだったんだなぁと思った。
「サングローズ」収録の「風花風葬」で、Coccoはついに自分で、自分自身を葬ったんだと、そう思った。
けれどそれはキッパリとして決然としたものではなく、不安と痛みと惑いに満ちている。
だけどこれでCoccoは「終わり」にしたのだと。
Coccoというアーティストに出会えてよかったなぁ、と思う。
彼女は自分自身を癒すために、自分自身のための歌を歌っていた。
けれどもその「歌」は、それ以外の人々をも癒してくれていたのだから。